「旗本御家人 驚きの幕臣社会の真実」 氏家幹人著
- 作者: 氏家幹人
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2011/10/06
- メディア: 新書
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時代劇には、たいてい役職に就けない就活中の旗本・御家人が出てくる。働かなくても先祖代々から続く禄を食むことで、生きていけないのかというと、下級武士の禄100俵(石高35石)程度では家族の飢えと寒さを防ぐのにギリギリであったのだ。収入アップの道は役職について役料を支給されることだ。このために、登城前の老中などの有力者の屋敷に日参して、なんとか役に着けるよう就職活動をするのだ。金井伊大夫は20年間怠ることなく日参して、将軍の身の回りの用事をする西丸御納戸頭に出世したとある。これなどは運の良い方で、勝海舟の父勝小吉は17歳から将軍や江戸城の警護を担当する番入りを目指して、とうとうかなわず37歳で隠居してしまったほどだ。かように、旗本・御家人の就職活動は難しい。なぜ、江戸時代の旗本・御家人の就職がかように困難を極めたかといえば、館林藩主であった5代位将軍綱吉と甲府藩主であった6代将軍家宣伝の家臣が大勢旗本・御家人に編入されたことで、幕府のポストに対して旗本・御家人の数が過剰になってしまったからだという。
役職にも役得と逆に役損というものがあった。役得がある役職と言えば、有名なのが長崎奉行であろう。貿易のおこぼれによる利得がスゴイらしい。ただし、これだけの役得があるだけあって、就職活動には多額の賄賂が常識であり、その額は1〜2億円にも上る。稲葉出羽守は就職活動の甲斐あって晴れて長崎奉行に就任するが、その1ヶ月後に病死。残ったのは、就職活動のための借財だけだったということもある。生きて数年勤め上げれば借財も返済できたであろうに。長崎奉行は、ハイリスクハイリターンなリスキーな役職だった。
それでは、役損が出た役所はなにか?時代劇「鬼平犯科帳」で有名な火付け盗賊改だ。この役職は出費が多く儲からないので、貧窮のあまり出勤できず屋敷に病気中として引き籠ってしまう者もいたらしい。
身分制度のやかましい江戸時代というイメージがあると思うが、実はお金次第で農民や証人も武士になるこができたのだ。下級武士の御家人株が公然と売買されていたし、御目見以上の旗本にだって金次第でなれたのだ。御家人株を買って士分になった後、更に金で旗本の養子になることで、その家を継ぐという方法があった。形式は養子縁組であっても、実質は旗本の身分も金で買えたというわけである。江戸時代末期には、商人や農民から武士に成り上がったにわか武士がたくさんいたという。それどころか、こういった成り上がり武士の方が、由緒ある家柄の武士より能力が高い者が多かったともいう。幕末の外交をになった俊英 川路聖謨なども甲府浪人の出身であったそうだし、勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介などもみんな成り上がり武士だったのだ。
本書は、明治半ばという江戸時代が終わったが、まだまだその残影が色濃い時期に、元旗本の大谷木醇堂によって書き残された武士の実体をもとにしている。その実体は我々がイメージする武士道精神とは大きく異なるのだ。