「和僑」 安田 峰俊

上海の日本人街にあるカフェで著者が知人を介して取材のために面会したのは、上海のアンダーグラウンドに深く関わる年齢60代前半の鈴木義龍氏である。鈴木翁は、上海における唯一の公認???日系ヤクザ組織義龍会の現役トップ。

著者自身は、大学で中国語を専攻し、それがきっかけで数年間中国の深圳大学にも留学し日常生活における中国語会話には何ら困らないコミュニケーション力はあるという。大学卒業後も、中国関係の取材記事を書くフリーライターとして飯を喰っているいわゆる中国通である。その中国通である著者の視点で現在の中国を俯瞰したとき、中国に居住する日本人には計り知れない人種がいるということに気付き、これに興味を持つ。

鈴木翁もその一人であり、なぜ日本国内ではなく上海でのヤクザ稼業なのだ。鈴木翁の奥さんは中国人でその義弟が中国の公安(中国では諜報機関でなく警察などの治安行政機関全般を意味する)と中国マフィアの両方に大きな影響力を持つ人物である。義龍会は、上海における日系企業界から、その秩序と利益を中国の公安当局に代わって守る(踏み倒された債務を取り立て、トラブルの仲裁などをするということ)ための組織として、日本国内でも有力暴力団の大物であり、上海の公安当局にもコネのある鈴木翁に要請があって設立されたという。設立にあたっては、公安当局の上層部へ鈴木翁が「これこれ、このような事情で上海に日系ヤクザ組織をつくるが良いか」と挨拶にいく。公安幹部は「かまわないよ」と簡単に事が運ぶ。それでもって「殺人」以外のトラブルは大目にみてくれるとの暗黙の了解まで取り付けたようなのだ。鈴木翁が空港に知人を送迎に行くときは、公安のパトカーをタクシー代わり出来るし、サイレン鳴らして緊急車両として交通法規も無いに等しい立場(法規制の枠外の身分)だそうだ。

こんな中国公安組織だから、日系企業の正当かつ公正な利益を守ってくれるわけではなく、公安自身が法外なみかじめ料を強要してくるのだから、それなら日系ヤクザ組織で合理的なコストで自衛してもらおうというわけだ。中国公安はヤクザよりたちの悪い連中だということなのだ。現代の中国社会でそんなことあるのかい10年ぐらい前の話ではと、思わず本書の発行日を確認したが2012年である。これは現在の中国、それも先ほど万博まで開催した発展目覚ましい国際都市上海の話なのだ。

一方で、上海の日本人駐在向けマンション「東櫻花苑」(http://www.shsakura.com/)に居住する中国居住の日本人の生活環境も興味深い。ここは本当に中国上海なのだろうかと目を疑う。居室の紹介画面には、日本の標準マンションと何ら変わらないリビングダイニングに隣接してなんと和室が見てとれる。和室は赤ちゃんのいる家庭には授乳に便利と人気があるらしい。マンション階下に入居する和食レストランからカツ丼の出前も頼めるので、上海にいながら畳敷きの和室でコタツに入ってカツ丼を食べることも可能だ。コタツの電源も心配はない。中国の電源コンセントは220Vなので日本から持ち込んだ家電品は使えないが、このマンション内では電源が100Vに変換されているので日本の家電製品がそのまま使用でき、上海で新たに家電製品を買う必要もない。

中国ではインターネット検閲(金盾)が行われており、サーチエンジンでの特定の言葉の検索結果に対するフィルタリングがあるので、中国政府にとって好ましくない検索は通常出来ない。ところが著者が東櫻花苑内の無線LANを利用してスマートフォンで「天安門事件」の検索が出来てしまったという。中国内でも5つ星ホテルのような外国人が主な宿泊客である施設と同等の特別措置が取られているようなのだ。このあたりを調べてみるとやはり「北京のある五つ星のホテルのいくつかでは、少なくともこの1年以上 Facebook へのアクセスが制限されていません。」との書き込みが見られるので、場所によって異なるようなのである。

東櫻花苑の賃貸費用は30万程度以上と高額なので、大企業の駐在員が社宅として、また中小企業なら幹部社員そしてJETOROなどの公的機関の職員がほとんどだ。東櫻花苑内には、スターバックス、スポーツジム、大浴場、コンビニ、カルチャースクール、日本食レストラン、図書館などの施設を完備。更に防犯壁、ガードマンや防犯カメラによる三重のセキュリティにより安全が保障されている。子供たちは「日本に帰国しても何の違和感なく日本の学校にとけこめるように」を教育方針としている日本人学校の虹橋校と浦東校に通学しているので、コアな中国と接触することなく、この地域から他に出歩ける場所もあまりないので、悪い環境に影響されず極端な不良化もしないそうだ。この範囲で完全に生活が完結することが可能なのだ。東櫻花苑のような日本人専用の高級マンションは暗黙の治外法権地域なのだ。

著者は、東櫻花苑に暮らす日本の生活をそのまま持ち込める上流層とも呼ぶ一時滞在的日本人居住者(=はなから中国に永住するもりはなく、あくまで仕事上の過程として)とそれ以外の出稼ぎ的日本人居住者階層を区分し華僑にかけて、それらを「和僑」と呼んでいる。和僑は、わざわざこんな混沌した中国にリスクを冒して生活の基盤を移すのか疑問を持ったのが本書執筆のきっかけだという。それはギラギラとした経済的な成功なのか、それともそれ以外の何かがあるのか、そこのところを取材で探っている。

共産党一党独裁の「中華人民共和国」と中国大陸一帯の地域や文化、人間の集合体としての「中国」というものは別の視点で見ていく必要がある。そもそも中国人に自国のためというような一国のまとまりを重視する発想・感覚は希薄らしい。「中国人」は存在するが「中華人民共和国人」というのは、いないのではないか。広大な国土に多人種、多文化が共存しているのだからそれも当然なのだろう。「そんな中国を隣国に持つ、我が国は大丈夫なのか?」というまっとうな話は横に置いておき、中国の5つ星ホテルでFacebookTwitterは本当にアクセス制限を受けないのかというのを試したいのである。

「忠臣蔵の決算書」 山本博文著

「忠臣蔵」の決算書 ((新潮新書))

「忠臣蔵」の決算書 ((新潮新書))

晦日に急いで正月に読むべき本の買い出しに行ったので、本を選ぶ時の気分は年末であるが、読むときの気分は新年ということになった。であるから、新年最初の本が「忠臣蔵の決算書」となったのである。本にも旬があると考えると本書の選択は、正月を江戸気分に浸ろうという魂胆に有効であるが、やや時期を逃した感がある。

ボクは年末恒例の大型時代劇を期待して待つ方ではないし、またこれを見ることもない。忠臣大石内蔵助吉良上野介を見事討ち果たすまでの苦労に共感し、その結末に武士の意地を見出したいわけでもない。本書も、忠臣蔵の登場人物の心情は横に置いておいて、これだけの大仕事が心意気でだけでなく、経済面でどのように支えられたのかに焦点を当てている。そう忠義だけでは、吉良の首は取れないのである。幸いにしてこの忠臣蔵は、この手の史料が豊富に残っている稀有な例であるという。ただし、これまで忠臣蔵を経済面で分析したものは少なく、本書はその空白をついて書かれている。

そもそも、劇中には赤穂藩の石高は5万石と出てくるが、この5万石という規模は、現在の価値に直すといかほどなのだろうか。自分の就職した会社が「10万石だ」とか、親から「30万石以上の大企業に勤めなさい」などと言われる現代人はいない。本書では、まず当時の貨幣価値や物価を考察し、1万石=12万円程度という分析を行っているので、赤穂藩の経済規模は60億円となる。そして歴史の授業で聞いたことがある「4公6民」という当時の有名な税率を掛ければ、藩の取り分は4公=4割である24億円である。赤穂藩は売上規模20億円強の企業と考えれば良いのだ。

では、家臣の給与はどうか。藩の最高幹部達は家老級が650石、上級武士は200石前後が多い。大石内蔵助は藩主とも遠縁の家柄の良い家老職で別格の1500石取りだった。上級武士は「知行取り」と呼ばれる領地を有し、そこからの収穫高が収入であったので大石の領地は1500石=1億8千万円収穫高で、そのうち4公=4割の7200万円が内蔵助の給料となる。内蔵助は破格の年収7200万円の大幹部、その他役員は年収3120万円、部長級は960万円といったところだろうか。これらに比較し、下級武士は「切米」と呼ばれる給与支給で10石とか20石(これでも正式な武士階級であるが)だから、年収120〜240万円というのがざらである。これじゃ武士はつらいわけだ。全国の藩のうち10万石を超えるものは全体の1割程度であり、5万石の赤穂藩は中規模の藩といってよい。そして赤穂藩は塩田を持っていたのでそこからの副収入もあり、石高に比べて裕福な方であったという話はしっている人も多いのではないか。24億円の売上規模の企業に従業員は300人ぐらいいて、役員クラスが数人で年収は3000万円、その下の部長級十数人が年収1000万円弱、一般従業員が年収200万ぐらい、更にその下に正式な武士として記録がない使用人もいるわけだ。まぁ、現在の会社組織とさして変わらないんじゃないかということである。

江戸時代と言えば、現在と比較して決して豊かな時代じゃないだろうが、もう少しリアルな貨幣経済から距離をおいた心豊かな時代なんじゃないかという幻想があった。しかしながら、その実態は「あるところにはあり、ないところにはないという」ということでは、今とさして変わらない。「武士は喰わねど高楊枝」(=貧しさを表に出さず気位を高く持って生きるべきで、やせ我慢することのたとえ)とあるように下級武士は年収200万円で貧困に喘いでいたのは、現在のワーキングプワーと変わらない。一方で家老級の内蔵助は年収は大企業の幹部並である。昔は良かった、今ほどの格差社会ではなかったからというのは、やはり幻想なのだ。ただし、下級武士でも討ち入りに加わった者は多くいて、これはやはり武士としての心意気というのがあったのだろう。

さて、吉良の首を取るには一体いくらのコストが係ったのか?浪漫派時代劇ファンの批判を買いそうなこの一冊。武士の経済学読んでみたいと思いますか?そして、生まれ変わるなら江戸時代でしょうの方、生まれ変わるなら上級武士がいいと思うのですがいかが。

「戦うコピューター2011」 井上孝司著

戦うコンピュータ2011

戦うコンピュータ2011

戦うコンピューターと聞き、武装したロボットが戦場で敵国と交戦するというイメージ(ターミネーターのような奴)を抱くかもしれないが、現状はだいぶ違う。戦闘機を例にとれば、その速度、上昇、旋回性能、そして攻撃用の装備(機銃やミサイル)の破壊力というハードの性能は来るところまで来てしまっており、最新の戦闘機の革新性はコンピューターとそのソフトに負う部分が多いのだ。昔ならば、その兵器の性能は、搭載している機銃の威圧感や如何にも速そうな空気抵抗の少ない機体とかが、戦闘機の性能を表していた。今や、素人目にどこが変わったの?というほどの地味な新型機であっても、また外見は同じでも、ソフトウェアを換装することで、まるで別の機体に変身してしまうということが常識。ドンガラでなくアンコの時代になったのだ。戦闘機も人と同じで、外見でなく中味が重視されるのだ。その中味とは、コンピューターである。

誰しも子供の頃に紙飛行機を飛ばして遊んだことがあるだろう。出来るだけ真っ直ぐに、そして遠くまで飛ばしたいと機体を水平に押し出すが、最後は機首が上向き、失速してお尻から墜落するという結末のあれだ。これは、紙飛行機の形態を思い出していただければわかると思うが、機首とお尻を比べたときに、機首の重量が軽いため、機体が後傾し、お尻からストンと墜落にいたるというわけだ。だから、機首とお尻の重量バランスを調整して紙飛行機を作ってやれば、安定して真っ直ぐ遠くまで飛ぶようになる理屈だ。

実際の飛行機の場合、乗客を運ぶ旅客機ならこれで良いのだが、戦闘機となると敵と交戦しなければならないという特殊事情がある。敵に対して優位な機体を目標とするうえで、旋回性能などの機敏な動作が重要視されるので、安定して飛ぶという動作とは相反することになる。つまり、安定性を追及すると敵の攻撃を回避する機敏さが失われ、撃墜されてしまうという矛盾に突き当たる。かといって、機敏さを追求するあまり、安定性を犠牲にした機体を開発すれば、当然墜落事故が頻発することになる。安定性に欠けるが素晴らしい旋回性能を持つ戦闘機を上手く操縦するというのは、非常にテクニカル能力と集中力が必要されるということが容易に想像出来るであろう。高機能化する戦闘機のパイロットにかかる負担は大きい。

ロッキード・マーティン社とボーイング社が共同開発した、レーダーや赤外線探知装置等からの隠密性が極めて高いステルス戦闘機であるF22は、その特殊性から主翼は複雑な六角形の変形デルタ翼であり、照射されたレーダー波を特定方向に反射するために機体を構成する角度は可能な限り同一になっている。ステルス性を優先すれば、飛行機としての安定性を犠牲にすることになる。

これまで、戦闘機のパイロットが右に40度旋回したければ、操縦桿をパイロットの技量で適切な量傾けることで、機体を操作した。パイロットは、その時の機体の状態や飛行環境などをモニターや計器から読み取り、瞬時の判断を行うことになる。F22になると、ステルス性を優先するあまり、機体を失速させないように同様の操縦することは、人間の限界を超えてしまうほどの情報分析と判断が必要となる。そこで、この情報分析と判断にコンピューターが介入する。コンピューターは失速しない範囲で最善の旋回行動を取るために、各種翼の可動角度を最適化する。パイロットは操縦桿を旋回したい程度に倒すのだが、操縦桿と各種翼は直結していないのだ。あくまで、パイロットの操縦桿操作は、パイロットの意志を表すことであり、実際にその意志に則した各種翼の可動角度はコンピューターが行う。結果が同じでもプロセスが全く異なるのだ。

更に、各機体のコンピューターが人間の能力を超える部分のフォローを行うだけではない。戦闘機は隊形を組み交戦状態に入ることが多いのだが、この編隊の各機体はデータリンクで情報交換を行い、敵に対して最も有効性のある位置にある機体が攻撃する。同一の敵に対し、複数の味方機が重複した攻撃を避け、味方機への誤射も防ぐチーム戦闘を行うのだ。戦場周辺の味方艦船やレーダー基地との情報交換と、異種兵器との連動もしているのだ。と、ここまで高度なコンピューターネットワークで国の存亡がかかる重要事項なのだが、意外なことに米軍オリジナルOSでもなくウィンドウズ7でもないウィンドウズXPや2000をまだまだ利用しているとか。民生用のOSでも耐久性と秘匿性が確保できれば問題ないのだという。また、兵器は長期の開発期間がかかり、開発開始時にOSを固定してやる必要上、最新のOSを取り入れることはできないという事情がある。

というように、軍製品と民生品の境目は曖昧だ。そして、最新兵器の技術も民間にフィードバックされている。想像以上に興味深い世界だ。システム関係の仕事に携わる人であれば、より面白く読めるのが本書であろう。著者は、マイクロソフトの元社員で軍事オタクな人みたいだが、文章は平易で素人でもわかりやすい。最近ニュースで、墜落の危険性が懸念されているオスプレィにも言及している箇所がある。「こんなの知って、どうするのだ?」という世界でもあるが、「へ〜、そうなんだ。スゴいことになってるんだ!」の目から鱗の読書体験を出来るということで、おすすめしたい本と言える。中高生にこんな本を読ませたら、自衛隊に入隊してコンピューターをどう防衛に活用するか追及したら、面白そうだと思っちゃう理系の子がたくさん出てきそうだ。

「サイエンス入門 Ⅰ」 リチャード・ムラー著

サイエンス入門 1

サイエンス入門 1

本書はカリフォルニア大学バークレー校の物理学教授が同校の文系学生向けに行った講義をもとに書かれている。この講義は学生投票によって決められる同校の「ベスト講義」に選ばれているのだ。今回は、文系学生向けのベスト講義で現在の科学・ハイテクをわかりやすく解説したという本書の帯封に強く惹かれて購入した。

著者は次のように言っている。文系学生向けに書かれているが、難しいと感じる箇所は読み飛ばして良い、とりあえず読み進め後から何回も後戻りしながら理解することが本書の読み方であると。昔、文系学生であったボクとしては、本書を読み終えて、「ムムッ!これは難しい。わからないぞ。」という部分は3割ぐらいであった。そして、まだ読み返していない。それでも科学の基本に触れた、「なるほどそういうわけだったのか」という目からウロコ感は十分感じられる。数式はほとんど出てこないが、出てきても読み飛ばして構わない。後で確認問題にチャレンジせよなどという構成にはなっていないのだから。

最近話題の核融合の基本から放射能、重力など講義の守備範囲は広いが、比較的わかりやすく身近なテーマである電力について、ここに紹介しておこう。いきなりであるが、ひとつ公式をあげておく。電力(ワット)=電圧(ボルト)×電流(アンペア)だ。よく耳にする単位であるが、この3つの単位の関係は、ボクは全然理解していなかった。だからこの部分はすごく興味深く読めた。この公式の使い方だが、よくマンションの電気料金請求書に契約アンペア20Aなどとある。これは一体いかほどのエネルギーを表すのかこの年齢までまるで理解していなかった。みなさんも経験があるだろうが、ふろ上がりにドライヤーで髪の毛を乾燥させながら、テレビとDVDをつけて、電子レンジをチンしたらブレーカーが落ちたなんて経験が。ドライヤーの横に1200Wなんて書かれているが、これを上の公式に入れ込んでやる。前提として日本の電圧は100Vという基準があるから、ボルトの部分は100で固定、そうすると1200W=100V×電流となる。これから電流が逆算で簡単に出せる。答えは1200÷100で12アンペアである。これに、電子レンジが600W、テレビがDVDがと加算していけば、契約アンペア20Aを容易に超えてしまうのがWかるだろう。そして、この契約アンペアを超えればブレーカーが落ちるというわけだ。だから、契約アンペアを30や50Aに上げてやれば、一度に複数の家電製品が利用できるというわけである。こんな計算、高校生や中学生で教わっただろうか?ボクの記憶にほとんどないのである。もしかしたら、たまたまその授業で居眠りをしてしまったのかもしれない。

もひとつ大気の中の音の伝わり方について紹介しよう。「シーンと静まった明け方の・・・。や夕方の街の喧騒の中・・・。」という文章をあたりまえのように受け止めるし、書いたりする。確かに明け方は静寂で夕方は喧騒という組み合わせはしっくりくるし、当てはまっていると思うのではないか。これは科学的に説明がつくことなのだ。別に明け方は車や電車が走っていないからとか、夕方は通勤客でごった返しているという理由ではない。これは、音の伝わり方に理由がる。音は、常に真っ直ぐ進むとは限らない。冷たい大気と熱い大気では、熱い大気の方が音は早く進むそして、音は音速の低い方へと曲がるという性質がある。朝は冷たい大気が地表近くにあり、温かい空気は上昇している。つまり音はボールを投げたとき地球の重力で放物線を描くのと同様に上空から地表のほうへ曲がってしまうのだ。だから遠方の音は届きにくい。逆に夕方は日中に地表近辺の大気が暖められているので、冷たい空気は高度のある上空にあり、音は地表から上空へ曲がるよう上昇する。これで、音が遠くまで伝わるのだ。

以上、紹介した2つの話は、既に常識としてご存じの方もいるであろう。文系のボクにとって、比較的わかりやすく、実感できる箇所だったので紹介した。本書は、第二巻もある。文系人間にとって、是非読破しておきたい科学書として非常によくまとまっていると思おうのだ。

「僕がアップルで学んだこと」 松井博著

著者は、1992年にアップルジャパンに入社し、2002年から2009年までアップルの米国本社に在籍していた。つまり、アップルが倒産しそうな暗黒時期からスティーブ・ジョブスがNext社からアップルの暫定CEOとして復帰し、大変革が起こった時期をまたいでアップルの内側を体験して書いている。

本書を選んだ読者が最も興味を持っていることは、暗黒時期のアップルはどれだけひどかったのか?とアップルはどうのようにして復活したのか?そしてアップルの強さとは何か?この3点において、アップルの変革期に内側にいた著者のレポートを読みたいということだろう。その構成は、アップルの内幕8割、残り2割は著者がそこから得た普遍的な人としてあり方まとめである。後半2割は、もともと著者自身が資質として持っていたもの、又はウスウス気づいていたがアップルでの経験でその信念を固くしたポリシーだ。その内容は、「それはごもっとも」、「ボクもそうだと思っていた」という今や常識なことだとは思うが、そこはアップルでの実体験を経てその考えを固めた著者が書いているのだから、説得力がある。

アップルの暗黒時期、社内には150ぐらいのプロジェクトが同時進行していて、誰もがその全体像を把握していないという自由気ままなというか混沌としていた。社内の人間がアップルで今何が開発されていて、どんなプロジェクトがあるか知りたければ、アップル製品の専門誌を買って読むのが手っ取り早いという状況だった。ジョブスはアップルに復帰してプロジェクトを10に減らした。持てる資源を集中させるシンプル路線へ大変更したというわけだ。また、ジョブスは仕事の責任者を個人に特化する。この仕事が上手くいかなかった時の説明責任者が指名されたのだ。日本では、成功してもしなくてもチームの手柄で連帯責任というのがある意味美徳とされるが、完全に個人責任にした。もちろん、責任に対して、大きな権限も与えられだが、解雇もあり得るから、これはやっぱり強度のストレスがかかるそうだ。シリコンバレーでも、アップルは他社に比較し、長時間勤務、上層部からの圧力、責任の重さできつい会社だと言う。著者は、アップルはある面で「ブラック企業」と言っている。

著者がマネージャーとして、その仕事のやり方で重視したこと、そしてその効果を書いている。これは、人間の特性を考慮しながら、効率をどうやって上げていくかという試みだ。アップルでの体験が無い人から、これを教えられても「そういうもんかな?」と眉唾ものだが、具体的な体験からの知恵だから説得力がある。著者の基本的な考えは、「人は環境により変わる」ということだ。それは、人が目標を定め「よし!絶対これを完遂してやる」という意志より、環境・習慣の力の方が強いという結論だ。アップルのような頭がいいやつ、個性が強いやつがゴロゴロしている会社でも、人は意志より環境・習慣に方に影響を強く受けるということだ。だから、マネージャーとして部下のパフォーマンスを上げるには、環境の管理に相当の知恵を絞っている。そして、自らアップル(社会)で生き抜くため、いや、人生を有意義にするため習慣を大切しろと強く勧めている。

最初はアップルの内幕に興味を持って選んだのだが、著者はアップルの影響を強く受けているので、シンプルでありながら効果的な教訓を教えてくれる。それは決して、目からウロコの驚愕すべき内容ではないが、なぜか心に残るのだ。人は、「環境・習慣」に支配されるという事実を「アップルという、世界基準でもハイレベルな職場で実践してみたら」をサクサク新書版で読めた。外資で働いて、シリコンバレーあたりで生活している人は、こんなドライな文章を書いて、その内側には明快なポリシーを持っているだなぁというのが、本書の行間から感じられというところもある意味新鮮な本でした。

「新忘れた日本人」 佐野眞一著

新忘れられた日本人

新忘れられた日本人

日本史におけるメジャーな偉人「坂本龍馬」だとか「織田信長」だとかは、その伝記を書いた著者が実際に坂本や織田本人に会ったことはないだろうし、本人を良く知っていたという第三者にインタビューして裏付けを取ったということも、まぁ無いだろう。つまり、全然本人と面識がなく、本人が亡くなって相当経過し、その時代にあわせて歪曲された内容の書物から拾った情報とか、その地方に口伝で伝わる物語を土地の長老とかから聞き取って、書き留めたなんてことの蓄積でカタチになったわけだ。世の中、誰かが言っていたとか、みんながそう言っているからというのは、ケッコウあてにならないものである。で、あるにも関わらず、子供に偉人の伝記を読ませて、偉人はこんなとき「頑張ったのだよ!」「君も負けずに頑張れ!」というのは何か胡散臭い。完全に作られた漫画の主人公を崇拝するのと同じじゃないかと。だから、注意しないと伝記を読んで歴史を学ぶことが、真実を知るためでなく、ロマンを感じるためという目的に摩り替わってしまう危険性があると思うのだ。

さて、そんな話は置いておき、本書では歴史上というにはまだまだ最近の個性的日本人が紹介されている。この最近というところがポイントだ。それは著者が直接インタビューしたり、少なくともその人物の近くで実際にその人物を見て、話をしたことがある者に取材しているからだ。その人物像は、かなりリアルである。リアルであるからこそ、歴史にロマンを感じたい人に取っては、目を背けておきたい事実もあるのだけれど。

デパ地下の食品街に行くと目につく和菓子屋がある。何か手土産にでも、と迷い伝統的な和菓子を頭に描いたとき、この店で買ったこともある。しかし、ボクもこの和菓子屋のことは、大いに誤解していた。この和菓子屋「叶匠寿庵」という。「叶匠寿庵」という店名から、室町時代あたりから続く(室町時代に一般的な和菓子屋なんて無かったかもしれないが、イメージですイメージ)京都の老舗ぐらいに思っていたが、驚くことにこの店、創立は戦後の昭和33年と比較的新しい。これはすごく、イメージを覆させられた。更に、創立者は和菓子職人とかではなく、元警察官なのだ。「叶匠寿庵」はわずか20年で「和菓子のソニー」と呼ばれるほどの急成長をしたのだ。創業者の柴田清次氏は、戦争で左目を負傷し、義眼となった。戦場から帰還後、警察官を経て「日本一の和菓子屋」を目指す。昭和40年醍には、松下幸之助夫人や裏千家がひいきする。知る人ぞ知る名店になっていたという話。

戦後日本で最も有名な兄弟と言えば、石原兄弟。そう、兄が現東京知事の石原慎太郎氏で弟は石原裕次郎だ。本書の主役は、この兄弟ではない。その父石原潔だ。石原兄弟と言えば、湘南育ちで学生時代からヨットなんかに乗っていた、ブルジョア階級の子だと思っている人が多いだろうが、実際は違う。父潔は、愛媛県で生まれ、旧制中学を中退して、山下汽船の「天童」(お店なら「丁稚」にあたる)として、下働きから小樽の支店長にまでなった人物だ。潔は、ある日宴会をやり、芸者をあげてドンチャン騒ぎをしていたら、その支払いが出来ないぐらいの額になってしまい会社の金庫から金を持ってこさせて、お釣りがあったらそれも全部の見直して使ってしまうような豪快な人物だ。これが会社にばれて、解雇されるところ、小樽支店へ左遷と温情的な処分で済んだというエピソードもある。石原兄弟は決して、いいとこの坊ちゃんじゃなったわけだ。この話なんか、当事者が生きている現東京知事である。

小学生に織田信長とか豊臣秀吉なんかの伝記を読ませても仕方がない。こういうボクたちの生きている時代に直接つながっている昔を生きた個性的な日本人を描いた本書を読ませるべきでしょう。と思うが、少しその副作用というか毒性も強いかなという一冊。

「2100年、人口3分の1の日本」 鬼頭宏著

2100年、人口3分の1の日本 (メディアファクトリー新書)

2100年、人口3分の1の日本 (メディアファクトリー新書)

「現在、日本が抱える問題の多くは、将来の人口減少とそれに伴う労働人口の減少を大きな原因としている。だから、今後の日本の人口減少について基本的な知識を整理しておくことは意義深いと考える。」などと、冒頭から硬いことを書いてみて、それはそうなのだが結局のところ、日本の人口減少が前例のない規模なら、ボクらの生活している社会はどんな影響を受けるのだろうか?また、本当に人口減少はそんなに大変なことなのか?「人口が減れば、朝の通勤ラッシュもなくなり、高速道路の渋滞もなくて、良いんじゃない!」と、つい目先のメリットに目が行ってしまうボクにとって、さほど大問題という実感が湧かない。「日本はこの先の近未来どうなるんだろう?相当ヤバイ?何が?」ということを興味本位で、スパッと新書版で読んでやろうというのが、本書を選らんだ本音である。これを読んでおけば、「あぁ〜、それは日本の人口減少という根本的問題を考慮に入れて見込むべきでしょうね。」なんて、意見が吐ければ良いのである。

最近の日本の人口は1億3千万人ぐらいでしょうか?これが、100年後に計算にもよるが4000万人ぐらいまで減少してしまう可能性があるのだと。単純に言って、100年で1億人近い人数がいなくなるということだ。その頃、ボクは多分既にこの世にいないのであるが、この数字は衝撃的だ。「そんなに減るのかよ!」という感じでしょ。この4千万人という数字だが、過去の日本の人口推移の中では、幕末時期と同程度らしいのだ。坂本竜馬とか西郷隆盛とかの維新の英雄は、4000万人分のいくつかの確率で出てきたということになり、現在1億3千万人もの人口があるなら、そういう英雄が確率で言ったら3倍くらい出てきても良いのだと思う。と少し、話が横道にそれそうになるが、そういう視点でみれば、日本の人口は幕末期に戻るだけなのだが、人口の増減というのは大幅な波があり、そもそも、そういう波長の中で起こる自然の現象で、今が特別異常ということでないのかもしれないと、感じちゃうわけです。歴史の長いスパンで見れば、ここ数十年から100年の短期間を切り取って、局所的に眺めて異常事態と感じているという見方もある。でも、人間は100年と生きられないものだから、ボク自身とか、その子供や孫という、お互い顔を見て、個人的な感情を持たざるを負えない、限られた時間的範囲として見れば、やっぱり大問題でしょう。なのにボク個人として、「100年後はこの世にいないかな」と思うと、少し後回しに考えてしまう長中期的な中途半端な時間単位でもあるという、捉えどころがないという面もある。

経済学者トマス・ロバート・マルサスの「人口論」によれば、①食糧(生活資源)が人類の生存に必要。②第二に異性間の情欲は必ず存在する。と前提で人口というものの原理を考えているのだ。人口は制限されなければ幾何級数的に増加する。しかし、食料の生産はこの人口の幾何級数的な増加に追い付けない等差級数的に増産される。やがて、食料生産が人口増加を支え切れなくなると飢餓が起こり、それ以上の人口増加が停止するのだ。食用生産は、開発を通じて増加するが、追加できる耕地面積や労働生産性の効率化には限界がある。耕地面積はその国の国土に制限され、これを超える耕地面積は生み出すことは海面を埋め立てるぐらいしか手段が無いから、もちろん制限がある。地球規模での人口増加には、やがて歯止めがかかるということだ。でも、食料生産性を上げるために、国土の拡張行動が、戦争を引き起こし、その戦争による戦死者による人口減少ということもある。人口増減は、やはり地球という人類が生存していくに不可欠な限界のある資源の争奪により、長期的なスパンで増減を繰り返すことが自然の摂理であるということか。そのように考えていくと、遺伝子組み換え技術による作物単位あたりの収穫量の増加という試みは、耕地面積を広げるという行為に等しい効果がある。だから、人類の進むべき方向性として、遺伝子操作の倫理性やその危険性は問題視されるものの、やっぱり良いか悪いかということは別にして、止めることは出来ない進化の方向なのだとも思う。

現在、人口が多い順に国を並べると中国→インド→アメリカ→インドネシア→ブラジルとなる。これが20年後ぐらいにインド→中国→アメリカ→インドネシアパキスタンと中国とインドの順位が入れ替わり、パキスタンが5位に登場する。中国の人口が多いことは周知のことであろうが、20年後にはその1位の座がインドに後退するのだ。中国は1979年に始めた一人っ子政策で人為的に人口抑制をした結果、今後いびつな人口構成問題に悩まされるのだろう。子供は夫婦一組に対し一人しか持たないとしたので、密かに産んだ子供が戸籍外で生まれ、成長して「黒孩子」(ヘイハイズ)と呼ばれ、教育や行政サービスを得られないという問題があるし、後継ぎとして男子が優先されたせいで、女子の出生率が低下し、同年代の男女比率において男子が多く女子が少ないという現象から結婚できない男子が100万人ぐらいいる。地球規模での人口増加を促進しているのは、主に発展途上国で、先進国は人口を減らしている。アメリカぐらいが例外で、これはヒスパニック系の移民が増加しているからで、本来のアメリカ建国当時からの主流WASPはその数を減らしていっているのだ。アメリカも将来その国民の中身が大きく異なってくるのだろう。

というように、人口問題を考えていくと、遺伝子工学とか歴史、そして政治・経済とあらゆるもの関連付けられて興味の枝が広がっていく。「さて、どの分野の本を読もうかな?」となったとき、最後に人口問題という木の幹につながっているという感覚は体系的な頭の中の整理にとても役立つのではないかと考えた1冊でしたね。