「お金から見た幕末維新」 渡辺房男著

お金から見た幕末維新――財政破綻と円の誕生(祥伝社新書219)

お金から見た幕末維新――財政破綻と円の誕生(祥伝社新書219)

幕末における日本全体の石高は3000万石、そのうち幕府直轄領が400万石、旗本御家人の知行地が300万石なので合わせて徳川の財政は700万石で全国の石高の23%だった。これに対し朝廷側は、禁裏用地や皇族公家領を合わせても10万石にすぎず、わずか0.3%だ。このような状態であったので、薩長鳥羽伏見の戦いで戦端を開いたものの慢性的な金欠状態に陥ったのも当然だ。そこで活躍したのが、両替商の三井組であり伏見で戦に勝った薩長が兵隊の食費・宿泊代が工面できずに立ち往生すると、三井組の手代が三井組の京都店へ金を送れと走り回った。錦の御旗を押し立てた天朝の兵が、まさか無銭飲食するわけにもいかない。むしろ世間相場より割高でも気前良く支払い人気を取りたいところだから、先立つものが入用だ。だから、三井組が用立てた資金も、すぐになくなり、またしても三井組の手代が金策に走り回るといったことの繰り返し。三井組無くして、薩長戊辰戦争を1日たりと継続できなかったというのが真実である。その働きにより三井組は大蔵省の前身となる金穀出納所御用達となり、今日では三井住友銀行となっていったのだ。

時代劇を観ていると、悪徳旗本と手を組んだ両替商の○○屋というのが出てくるが、この両替商とはどのような仕事だったのだろうか。現代の銀行のように預金を集め、これを資金として貸し出すことの利息で利益を得ていたとイメージされているとすれば、だいぶ異なるのだ。

庶民が小口決済に利用した銅銭。上方を中心に銀山から山出しされた灰吹銀に極印を打ち、その質量に応じて実質価値が定まる秤量銀貨である丁銀、豆板銀。江戸を中心とした大口決済用の小判、朱金などの金貨の三貨が混在して流通していた。

幕府は三貨(金・銀・銭)を固定相場として「金一両=銀六十匁=銭四貫文」の換算率が用いたが、一般の商取引では市場経済により、金一両、銀一匁および銭一文は互いに変動相場で取引されるのが実態であった。両替商は小判、丁銀および銭貨を手数料を取って交換していたのだ。貸出業務としては、大名への資金融通としての「大名貸し」が行われていた。

日本国内でドルと円が同時通貨として、変動相場で運営された状態にあって両替商が外貨両替の手数料としての利益を得ていたとイメージすると良いだろう。明治維新当時、日本は通貨の統合がされていなかったという歴史上の重大な事実を本書は気づかせてくれる。

戊辰戦争そして西南戦争と資金繰りの厳しい明治政府の大隈重信は、その打開策として太政官札の増刷を行い資金不足に対応しようとし、インフレを引き起こす。更に、江戸時代においても財政危機に際してたびたびの貨幣の質を落とした改鋳が行われてきたことから、同じ1両小判でも鋳造時期により価格がまちまちであった。また、各藩も自藩内でのみ通用する藩札を独自発行していたことから、国内の通貨に統一性がなかったのだ。そこで、明治政府は印刷技術に優れ、偽造される恐れのない紙幣として外国製の「明治通宝」を輸入することにしたのだ。明治通宝札はドイツのフランクフルトにある印刷会社ドンドルフで百円から十銭まで九種の紙幣を合わせて7604万枚刷ってもらった。明治通宝札には、輸入時にこの「明治通宝」という文字が紙幣に印刷されておらず、政府は札の空欄にわずか15人の練達の書道家をもって、この文字を補筆させる計画であった。これは、偽造防止のためだったそうだが、書道家たちがどんなに奮闘して文字を書き込んでも20日間で5万枚強しか完成できず、全札7000万枚を完成させることは不可能と判明し、急遽と手書きは取り止めとなった。当然であろう。7000万枚を15人で手書き補筆するなど無理であろう。そこで木版により明治通宝の文字を押印することで対応したのだ。

本書は、明治政府が紆余曲折のうえ日本製の紙幣「円」をもって、悲願の国内通貨の統一までを描いている。学生時代、明治史を政治・文化面で学習して来たが通貨の統一と明治政府の経済政策という視点で見直すことで、新たな驚きが得られたというのが、本書のポイントである。歴史においても「先立つものは金」なのだ。