「馬車が買いたい!」 鹿島茂著

馬車が買いたい!

馬車が買いたい!

本書のタイトルは「馬車が買いたい!」であるが、競走馬を牧場で育てる馬主の趣味が高じて馬車にまで手を出すまでの物語ではない。著者はフランス文学者で大学教授であり、日本一馬車に詳しいと自称している人物である。著者の関心は、もっぱら19世紀のフランス文学における社会的な背景を馬車という乗り物で解釈していくことにあるのだ。つまり、ユゴーの「レ・ミゼラブル」やバルザックの「あら皮」「ゴリオ爺さん」に登場する登場人物たちが、フランスの田舎からパリへ上京し、社会的な地位を得るために如何にしてパリの社交界に食い込もうかと狙うなかで、そのために必要なのが馬車であったのだ。馬車を買うことは、一間のアパートに下宿する貧乏大学生が、フェラーリやロースルロイスを買おうと夢見る以上に困難であったのだが。

当時、パリのチュイルリ公園の周辺には貴族の大邸宅や新興ブルジョアが住む屋敷が多く存在した。そのため、公園にはしばしば上流婦人が散歩に訪れ、彼女たちの愛人であるダンディな紳士も示し合わせたようにやってきた。上流婦人とその愛人たちは、パリの最新ファッションに身を包んでいたから、そこはあたかもファッションショーの会場のようでもあったのだ。バルザックの小説の登場人物たちは、このファッションショーの会場に潜り込んで、あわよくば上流婦人の愛人になり、そのコネを使って立身出世を夢見ていたのだ。そのためには、田舎者の登場人物がひとかどのダンディに見える細工が必要なのは当然で、まずは身なりを整える必要があった。最新のファッションに身を包まなければその出自がバレテしまうというわけだ。そこで、食うや食わずの学生が、田舎の実家に仕送りを無心して、総額150万にも上る出費で最新モードの服をあつらえるのだ。これは、貧乏学生がブランド服を購入するという感覚より、高級外車を購入するという方が感覚的に近いだろう。それにしても、なぜ服装に150万も必要だったのだろうか。それは、当時のパリにおいて、既製服というのは存在しなかったからだ。現在では、よほどの贅沢と洒落っ気がなければ、フルオーダーの服など誂えることはないだろう。たいていのブランド服は高額であるとはいっても、「吊るし」(既製品)である。上流婦人の前に出ても恥ずかしくない服装は、この場合必要経費だったのだ。そして、登場人物たちは服の洗濯代にも月に数万の経費を使っている。月に数万である。自分で洗濯すれば経費を浮かせるではないか、と思うだろうが、これにはチャンと理由がある。当時のパリには下水道が整備されていなかったので、自分で洗濯ができなかったのだ。然るべき場所で運んで洗濯してもらうために、クリーニング代はこれまた必要経費である。このように、当時のパリは我々の住む現在とはその背景がおおいに異なり、本書を読むことでそれが理解できる。

さて、馬車であるが、これもある面は必要経費だったのだ。パリの街は道路が整備されておらず、そこいら中に馬糞が散乱、雨でも降れば泥土とかすような状況だった。大枚はたいて買った衣装や靴でやっと愛人となった上流婦人の自宅を歩いて訪ねれば、泥だらけとなりみっともないことはなはだしい。百年の恋も一瞬でさめてしまうことだろう。婦人の家の召使いたちも馬車の音がしないのに愛人が現れれば、バカにした視線で出迎える。その視線に耐えるのも大変な苦痛であるのだ。だからこそ、バルザックの小説に出てくる登場人物は自分の馬車が欲しいと憧れるのだ。ある上流婦人の邸宅の中庭に大貴族の乗り物と思われる一頭立ての二輪馬車(キャブリオレ)が停まっているシーンが小説にでてくるのだが、「3万フラン(三千万円!!)出しても買えそうにない馬車」と表現されている。そう三千万円である。現在で例えるなら、さしずめベントレーのキャブリオレにでも匹敵すのだろうか。我々のような馬車の素人には見分けることは困難であろうが、馬車にもその場面場面に合わせた最適な形態というものがある。公式の夜間舞踏会にオープンの馬車では乗り付けられない、この場合は箱型四輪馬車(クーペ)必要である。日中の愛人との遠乗りには二人乗り二輪馬車(チルビュリー)が良いだろうが、クーペは公式行事には欠かせない。つまり、パリでチョッといい顔がしたければ、最低馬車の2台は必要なのだ。だから、本書の最初の印象である「趣味が高じて馬車にまで手を出すまでの物語」というのも、あながち外れていない。あともう一歩のところで危うくという落ちがある。