「牡蠣と紐育」 マーク・カーランスキー著

牡蛎と紐育(ニューヨーク)

牡蛎と紐育(ニューヨーク)

ニューヨークと言えば別名「ビッグアップル」というのは知っていたが、その昔「ビッグオイスター」とも呼ばれていたことは知らなかった。そして、本書のタイトルが「牡蠣と紐育」であるが、恥ずかしながら「紐育」でニューヨークと読ませることも知らなかった。著者マーク・カーランスキーは、ニューヨークタイムズのベストセラーリストの常連作家であり、今回牡蠣を題材にニューヨークの歴史について書いたのが本書だ。

17世紀頃にイギリスの探検家ヘンリー・ハドソンが、全長85フィート船「ハーフ・ムーン号」でニューヨーク湾にたどりついた。そこはスタテン島の前の100平方マイルにもおよぶ広大な湾だった。ヘンリー・ハドソンが目指していたのは、北アメリカから中国へ抜ける新たな航路であり、この湾奥に流れこむ河を遡れば太平洋側へと抜けるであろうと期待していたのだ。が、残念ながらこの湾はから太平洋側へ抜ける航路は発見できなかった。しかし、ヘンリー・ハドソンは、現在のニューヨークから想像がつかないが、この場所が世界でも有数の動植物が共存し繁栄していた自然の宝庫であることを発見したのだ。ニューヨークには、野生のチエリー、ナシ、りんご、ナッツなどが生い茂り、空気は素晴らしく清浄で芳しく、河川ではニジマスチョウザメ、コイなどの魚を手掴みで取ることができた。そう、まさにここは「エデンの地」であったのだ。

この豊穣な地の湾は、牡蠣の生息地として適していたのか大量の大型の牡蠣が簡単に手に入った。昼食や夕食用に牡蠣を集めるなら、浅瀬を少し歩き回るだけで事足りたのだ。やがて、ニューヨークへの入植者が増え、牡蠣が商品としての価値を持ち始めると、それだけでは足りなくなり、10〜15フィートの深さの沖合に小舟を出し、牡蠣専用の長い柄と歯がついた熊手のような器具でかき集めたのだ。かき集めた牡蠣で小舟がいっぱいになると、これを売りに街へ運んでいったのだ。当時のニューヨーカーは一度の食事に数十個の牡蠣をいっぺんに食べたというから、相当な大食らいだった。牡蠣は安価であり、かつ非情に美味であったので、富裕層から下層階級まで分け隔てなく食卓に登るニューヨーカーにとって真にポピュラーな食材であった。

当時ニューヨーカーは牡蠣を生でも食べていたが、他にどのような調理方法があったか本書ではそのレシピまで紹介してくれている。例えば、「<オイスターパイ>およそ1クォートの牡蠣を用意し、黒いヒレの部分を取り除いてよく洗う。4分の1ポンドのバターと細かく刻んだアンチョビ、パセリ、ナツメグと牡蠣をパイ皮と二重三重にし、上からレモン汁をかけてオーブンで焼く。」とありすごく旨そうだ。こんな料理がレストランや家庭で食べられていたようだ。ニューヨークは土地が狭いので、建物に地下室を設けて有効に土地を活用していた。牡蠣を専門に出す飲食店はこの地下に出店されることが多く、籐で作ったカゴに赤色の布を張り付けた提灯状の目印を入口に提げていた。これが、「オイスターバー」の原型である。
ニューヨーカーの貪欲な胃袋は時代とともに更に大量の牡蠣を必要とした。そこで牡蠣漁師は、養殖による牡蠣の繁殖を思いつくのだ。種牡蠣を湾にまき、今度は鉄のカゴのような器具を船が牽引して、大量収穫する仕組みを考え出す。収穫した牡蠣は、専門の牡蠣の貝殻取り職人が早さを競って加工していった。しまいには、牡蠣殻取りコンテストも行われ、優勝者は3分3秒で100個の牡蠣殻を剥くことができたそうだ。

ところが、この後牡蠣の黄金時代は急速に終わりをむかえることになる。増加したニューヨーカーの出す生活排水や工場の廃液が大量に湾へ流れ込み。湾の自然は破壊されていくのだ。海中にはヘドロがたまり、汚泥の底に沈んだ牡蠣は窒息死していく。あれほどたくさん生息していた魚たちは死滅した。また、汚染された海水を大量に含んだ牡蠣を食べることは、極めて危険な状態になり、牡蠣を収穫することも禁止されていく。著者は語っている。海中を我々の目で見通すことができれば、今日のような状態にならなかっただろう。牡蠣の上に我々の出したゴミが積もっていくシーンを直視したならば、それを放置しただろうかと。