「ミシュラン三つ星と世界戦略」 国末憲人著

ミシュラン 三つ星と世界戦略 (新潮選書)

ミシュラン 三つ星と世界戦略 (新潮選書)

ミシュランガイドと言えば、2007年に欧米以外初めての欧米以外の版として、東京版が発売されニュースになったことが記憶に新しい。赤い装丁と星の数で「✽(1つ星)その分野で特に美味しい料理 、✽✽(2つ星)極めて美味であり遠回りをしてでも訪れる価値がある料理、✽✽✽(3つ星)それを味わう為に旅行する価値がある卓越した料理」とレストランを格付けすることで有名である。ミシュラン社において、このガイド本の売上はわずか1%に過ぎず、そのほとんどはタイヤによるものなのだ。ご存じの方は多いと思うが、ミシュラン社の本業は、世界第二位のタイヤ製造メーカーである。ミシュランガイドで3つ星を取るということは、料理人にとってどれほどの価値があるのだろうか。本書では、ミシュランガイド調査員の素顔、シェフの三つ星争奪戦、ミシュラン社の歴史など、✽の裏に隠された真実を追求している。

バターやクリームを減らし、野菜のピュレを多用して、肉や野菜の素材味を活かす独特の調理方法「キュイジーヌ・ア・ロー(水の料理)」で、料理界の注目を集めたベルナール・ロワゾーは、1991年に念願の3つ星を手に入れた。その後、ロワゾーは神戸ベイシェラトンホテルに支店を出し、料理界で初めてパリ証券取引第二部へ上場を果たすなど、順風満帆の人生を謳歌していた。ところが、2003年2月ロワゾーは昼食の仕事を終え、店の客と談笑したあと自室へ戻り、猟銃の銃口を自らに向けた。52歳の人生であった。ロワゾーは3つ星から2つ星への降格を恐れており、これが自殺の原因だと噂された。

フランス最南部の都市ペルピニヤンから更にいくつも峠を越えて1時間ばかりもクルマで走ったところに、平凡な農村であるフォンジョンクーズ村はある。フォンジョンクーズ村は人口わずか137人で、小学校も商店もない観光客とも外国人とも無縁な辺境にある寒村であった。村の中心部に他の民家と変わり映えしない平屋がある。しかし、良く見るとその平屋の入口にはメニューを記した赤い掲示板があり、かろうじてここがレストランであるということがわかる。この掲示板がなければ、ここがレストランであることはわからないであろう。そんな店だ。地味な外見から玄関を一歩入ると、高級ホテルと見間違えるような豪華な内装に驚くことになる。フランス全土から注目を集め、日本からも客が来る3つ星レストラン「オーベルジュ・デュ・ヴィユー・ピュイ(古井戸の宿)」である。ピュイの名物は、「夏のキノコとトリュフのピュレに乗った黒トリュフの腐敗卵」(ゆで卵の白身をスプーンで破ると腐敗したかのようなどす黒い黒トリュフソースが流れ出してくる趣向)である。この料理、本書を読んだだけでは、どんな味か想像できないが、寒村にある平凡な民家の玄関を入いると、そこが高級ホテルのような内装という演出だけでも、是非行ってみたくなるではないか。ミシュランガイドの3つ星は、どんな僻地でも上等な顧客を引き寄せる効果あるのだ。オーベルジュ・デュ・ヴィユー・ピュイのシェフであるジル・グジョンは言っている。「1つ星獲得で来店客は前年の35%増。2つ星で更に前年の47%増。そして3つ星では、更に前年の30%増になった。」と。仮に星獲得前が100人の来店者とすれば、1つ星でこれが135人となり、2つ星でおよそ200人、3つ星でおよそ260人になったということだ。そして、店はこの村で40人の雇用を生み出している。

このように、ミシュランガイドの星獲得はレストランやシェフたち、そしてその地域にも大きな悲喜こもごもの影響を与えている。それでは、このミシュランガイドの星評価をしている調査員とはどのような人たちなのか、これまでその調査員の素顔は秘密のベールに隠されていた。本書の著者は、幸運にもその調査員にインタビューする機会を得たのだ。

セーヌ左岸のアンヴァリット(廃兵院)の背後の住宅地にあるミシュランパリ本部地下の小さな資料館を訪ねた調査者の前に現れたのは、意外にも清楚で華奢な控えめな女性。39歳のドイツ人女性で、ドイツの3つ星レストランでマネジャーをしていた経歴を持つユリアネ・カスパーである。ユリアネによると、調査員の典型的な1日は、地方の小さい宿で目を覚まし、午前中に1軒、午後に1軒か2軒のレストランを譜面調査する。その採点方法はマニュアル化しているが、星の増減は一人の調査員の判断でなく、複数の調査員による均一性を重視したものであると。毎日美食にありつけて羨ましいと思われるかもしれないが、その量は大変なもので、仕事から解放される金曜日の夜はチーズだけで夕食をすませることが多いという。そんな、美食三昧を月に3週間続け、その間はずっと出張となる。そのような生活でもやりたいという人が調査員になるのだ。調査員の人数は、フランスで15人と思っていた以上に少ない。

調査する方もされる方も、美食とは大変なものである。「ミシュランガイドの調査員になりたいか?」と問われれば、興味はあるものの実際に仕事として選ぶのは大変であろう。もちろん、ミシュランの3つ星獲得の野望を持つシェフとなれば人生の浮き沈みに精神が休まらないことが容易に想像つく。せめて、生涯に一度ぐらい、3つ星レストランで食事を取りたいというあたりが、妥当な夢であろうか。