蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝― 鹿島茂著

蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 (新潮選書)

蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 (新潮選書)

薩摩 治郎八は明治から昭和に生きた人物で、パリに10年あまりも滞在する間に600億とも800億とも言われる巨費を浪費したとある。当時、あのパリに10年も長期滞在していた日本人というだけでも希少であろうが、数百億のお金を浪費した薩摩 治郎八とは、如何なる人物なのか俄然興味が湧くではないか。

薩摩といっても薩摩藩とは別段関係はない。治郎八は、一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として生まれた。イギリスのオックスフォード大学に留学し、法律や経済を勉強するという建前だったのだが、そちらの方の興味はあまりなかったらしく、ギリシア演劇などに関心をもっていたようだ。そして、後に治郎八は、パリへとその拠点を移していくのだ。

もちろん治郎八は、パリの地で職業を得ていたわけではなく、日本にいる両親からの仕送りを元手に豪奢な生活を送っていたわけだ。学生身分の治郎八に、仕送りされる金額は1か月に3000万だったというからすごい。治郎八は、モンパルナスを拠点に活動を行っていた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男などの日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく仕送りされた金を使ったのだ。治郎八の文化活動に対する最大の支援は、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市に建設するように呼び掛けたのに答え、その全額を出資し、建設した施設「日本館」であろう。これらの活動が評価されてのちにフランス政府からレジオンドヌール勲章が与えられることになる。

治郎八は、ニースで行われたコンクール・デレガンスにその当時のパリの流行色、紫がかった銀色のクライスラー・インペリアルの特注車で妻とともに登場し優勝を飾るなど、当時のヨーロッパの社交界にその名を轟かすこととなった。妻の千代は、松平容保の五男山田英夫伯爵の娘で、当時のパリのファッション界の最先端を行く女性として、「マダム薩摩」と呼ばれ、治郎八自身も爵位がなかったのにもかかわらず「バロン薩摩」と呼ばれていたほどだ。

治郎八は、第二次世界大戦後に日本に戻るが、敗戦後に連合国軍により行われた農地改革などにより薩摩家は没落し、土地や財産はすべて人手に渡っていた。治郎八のパリでの浪費が、薩摩家の資産をそうとう食いつぶしたということもあるだろう。治郎八が、帰国後にパリの面影を求めて安住した町は浅草だった。治郎八は、妻千代を病気で亡くした後は、浅草の踊り子小屋(ストリップ小屋)の花形だった真鍋利子と再婚し、徳島県に旧友の蜂須賀正氏侯爵の墓参りを兼ねて阿波踊りを妻とともに楽しんでいた際に脳卒中で倒れる。その後は徳島で療養生活を送り、そこで死去した。

治郎八が亡くなったのは1976年(昭和51年)であるから、ボクが小学生頃まで生きていたことになる。パリで600億円を浪費した日本史上最大の蕩尽王 薩摩次郎八は、ほんとに手の届くほど近い時代を生きた人物であるということだ。