「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 増田俊也著

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

格闘技のジャンルに捕らわれず「世界一強い男は誰だ?」という興味深く、かつ単純な問いかけは、1993年11月12日米国コロラド州デンバーで開催された総合格闘技イベントUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)である答を得た。UFCでは、空手家・キックボクサー・力士など8名の参加者が攻撃に関しては、目潰しと噛み付き以外はあらゆる攻撃が有効というノールールトーナメントで戦い、世界一強い男を争った。その際の優勝者は、グレイシー柔術で一成を風靡したブラジルの柔術ホイス・グレイシーホイス・グレイシーは、その時のインタビューで「世界一強く、尊敬する格闘家はマサヒコ・キムラだ!」と発言。日本の報道陣は、「マサヒコ・キムラとは誰だ、何者か?」誰もがその名前を知らなかった。木村政彦は、第二次世界大戦前後に天覧試合を制し、全日本柔道大会を連覇、15年間負け知らずの規格外の強さを持ちながら、講道館柔道の傍流に位置したため、その柔道史から忘れ去られた人物だった。

本書の著者は、これまでの柔道人口を累計1億人と計算し、その頂点に立つ男は木村政彦だと言い切る。著者は、現存する柔道界関係者、書籍、報道資料、記録映像を綿密に調査し、木村政彦最強説を立証していく。そして、なぜそれほどに強い男が生まれ、なぜそれほどに強かったにも関わらず柔道史から消えてしまったのかの疑問を解き明かしていくのだ。それは、著者が旧七帝大柔道の流れをくむ北海道大学柔道部出身であり、自身の柔道のルーツを確かめたいという動機もあったのだろう。木村政彦の自伝でありながら、単一の団体とし日本国内における柔道競技を統括している全日本柔道連盟による講道館ルールの柔道だけが柔道ではなかったことも読者に伝えたかったであろう。

現在、我々が目にするオリンピックを代表とする柔道競技のルールは嘉納治五郎によって創設された講道館によるもの(講道館ルール)だ。講道館柔道が定着し、柔道の代名詞となったのは、戦後のことである。戦前には、この講道館を凌駕する実力と組織を持った団体があった。それが、半官半民の大日本武徳会が設立し武道指導者を養成するための旧制専門学校(武専)と旧制高等学校・大学予科旧制専門学校の柔道大会で行なわれた寝技中心の柔道高専柔道(こうせんじゅうどう)だ。武専は終戦後に連合国軍最高司令官総司令部によって武道の禁止と大日本武徳会の解散がなされたことにより、廃校となった。高専柔道は、現在、著者も属していた旧帝大で行われている七帝柔道だけがその流れを受け継いでいるのみだ。戦後、武専と高専柔道が消え、柔道のスポーツ性をアピールした講道館柔道が柔道界を独占していったのだ。実は、木村政彦拓殖大学の前身である拓大予科を率いて高専柔道大会に初出場、初優勝を飾った。その後も拓大予科高専柔道大会で5連覇を成し遂げている。これは、当時寝技で世界レベルであった高専柔道大会を連覇した木村政彦の寝技レベルも世界レベルであったことを意味している。なにせ、講道館の猛者が高専柔道の寝技で片っ端からやられてしまい、試合早々の寝技引き込みを禁止する講道館ルールを設けたぐらいなのだから。今では考えられないことだが、理系のエリート高校・大学生達が毎年の高専柔道大会の覇者を目指し、締め技の開発をしていたのだ。必殺の締め技を開発した学校がその年の高専柔道大会を制していたのだ。もちろん、翌年にはその必殺技も防御方法が考案され、次の必殺技が出てくるというのだからスゴイ。相手の首と片腕を自分の両脚で絞める三角締めは、当時山口県の六高の生徒であった金光彌一兵衛と早川勝が考案したもので、現在ではトライアングル・スリーパー・ホールドとも呼ばれる。話は少し脱線するが、ボクは井上靖文学フアンである。井上靖の自伝風物語三部作である「北の海」には主人公の浩作が金沢の四高で高専柔道の寝技を体験する話が出てくる。このあたりを読んでいる人は、練習量が勝負を決める寝技の高専柔道がイメージできるであろう。

木村政彦であるが、もともと投げ技でも人並みはずれていた。得意の大外刈りはその投げる角度とスピードから相手は受身を取ることができず、頭部を床に強打して脳震盪を起こしてしまう。通常、技をかけるときは右とみせて左を狙うなどのフェイント技術を磨くものだ。ところが木村は、「フェイント技は本物の柔道ではない。投げたいときに投げれるようにしてこそ本物だ。」という柔道を目指す。木村の技はかけてくるのが分かっても防げないほどの圧倒的なパワーなのだ。だから、木村はいつでも自分の思う時に相手を投げられたという。また、そのスタミナも常人ではない。ある時、競合大学の柔道部に一人他流試合に出かける。当時の他流試合は、道場破りとされて、相手も五体満足で帰してはくれない殺気立った状況だ。そこで、木村は50人の部員を全て倒したと、おまけに帰宅したときに体調が思わしくなく、まわりの人がそれを問うと「朝から38度を超える熱で気分が良くない。」と言うではないか。38度の熱で50人抜きであるから、恐れ入る。重さ250キロの汽車の車輪をバーベル代わりに持ち上げ、一日10時間を超える乱取り稽古をこなしていたから、その身体は鋼とかしていたのだ。棍棒で木村を殴ると、殴った者は鉄を叩いたように手を痛めたという。そんな、投げ技と寝技の両方を制した木村は、まさに「柔道マシーン」「鬼の木村」と恐れられ、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と称えられたのだ。