「スエズ運河を消せ」 デヴィット・フィッシャー著

スエズ運河を消せ―トリックで戦った男たち

スエズ運河を消せ―トリックで戦った男たち

主人公ジャスパー・マスケリンは、英国で代々続くマジシャンの家柄に生まれた。もちろんジャスパー自身も、有名マジシャンとして知られた存在であった。当時のヨーロッパでは第二次世界大戦が始まり、英国もヒットラー率いるナチスドイツに苦戦を強いられていたのだが、ジャスパーはそんな母国のために、自分のマジックの技を戦争に役立てられるはずだと考えており、志願兵としてエジプトで向かうところから、この物語は始まるのだ。

本書は、英国の大マジシャンであるジャスパー・マスケリンがマジックのイリュージョンを駆使して、ナチスドイツを混乱に陥れるエンターテイメント小説だと考えたら間違いだ。本書はノン・フィクションであり、ジャスパー・マスケリンという希代のマジシャンの活躍を描いた物語であるとともに、実際に第二次世界大戦における実話でもあるから驚きだ。

ジャスパーは、ある時英国軍の将軍から重大な任務を依頼される。それは、英国の重要な補給基地となっている「アレキサンドリアという港湾都市をマジックのように消してくれ」というものだ。補給基地として燃料・弾薬・食糧などを集積しているこの港湾都市は重要な戦略拠点であり、日々ナチスドイツの爆撃機による空襲を受けていた。英国としては、エジプトで砂漠のキツネことロンメル将軍の戦車隊と対戦するためには、これ以上の補給物資の損害は死活問題であったのだ。そこで、ジャスパーにアレクサンドリアナチスドイツのパイロットの視界から消し去るようにという驚くべき作戦依頼が舞い込んだというわけだ。一つの都市を消し去ることは、ステージの上でウサギやハトを消して見せるというわけにはいかない。果たしてジャスパーは見事にアレキサンドリアを消すことができるのか、序章にして既に映画並みのストーリー展開となる。

本書の山場はその代名のとおり、ジャスパーがスエズ運河ナチスドイツから消し去ることなのだが、スエズ運河は幅70メートル、全長160キロメートルの巨大建造物であり、まさに不可能な作戦ではと思える。本書を読み進めていく中で、ジャスパーのイリュージョンの仕掛けが次々と明かされていくのだが、その手口からスエズ運河を消し去る方法は想像もつかないことだろう。そこで、アレキサンドリアを消し去った方法は、ここで紹介しておこう。その後に登場するジャスパーのイリュージョンを想像するのに良いヒントになるだろう。

アレキサンドリアは砂漠に囲まれた港湾都市であり、夜間になるとナチスドイツの爆撃機がその灯を目指して襲来するのだ。ジャスパーの作戦は、アレキサンドリアの近くに使用されていないマリュート湾をダミーの港に改造することだった。夜間、爆撃機パイロットがマリュート湾をアレキサンドリアと誤認してしまうように、照明設備や目印となる構造物をマリュート湾にこっそり設置する。そして、ナチスドイツの爆撃機が接近するとともに、アレキサンドリアの全照明を消し、同時にマリュート湾の照明設備を点灯するのだ。念入りに設定された夜間のマリュート湾は、爆撃機パイロットにはアレキサンドリアとしか見えないのだ。パイロット達はデータ上のアレキサンドリアとは微妙に位置がずれているマリュート湾の照明に困惑するのだが、その時、ジャスパーが仕掛けたマリュート湾の爆薬がさく裂する。パイロット達は、それが有軍機の投下した爆弾の炸裂と考え、それを目印に次々と、爆弾を投下し始めるのだ。投下したマリュート湾の地表は砂地で破壊するものなど何もないのだが。更に、ジャスパーは本当のアレキサンドリアにも夜のうちに仕掛けをする。アレキサンドリア港に、爆撃で沈没したと見える船体のマストを海上に突き出し、構造物の壁面にはキャンバス地に焼け焦げた壁面と弾痕の絵を描いて吊り下げ、横には瓦礫の山を積み上げ、火災によると思われる煙まで演出した。翌朝、ナチスドイツの偵察機アレキサンドリアの状況を写真撮影しに飛来することを想定してだ。上空からの撮影では、まるでアレキサンドリアが昨夜の爆撃で相当な被害を受けたとしか思えないように。ナチスドイツはジャスパーのイリュージョンにまんまと騙され、連日マリュート湾を爆撃し続けるのだ。アレキサンドリアはその間、見事に補給物資を守り抜き、後のロンメル戦車隊との戦いを有利に進める要因をつくったのだ。

本書は、正月のロードショー映画として公開されても十分に楽しめる内容である。もう既に、どこかの映画配給会社が映画化権を手にしているのでは、と思ってしまう。しかし、本書は第二次世界大戦のある局面を描いた実話であり、ジャスパーは実在の人物である。「スエズ運河ナチスドイツから消し去る方法とは、何か?」この結末は読まずにはいられない。