「毛沢東の大飢饉」  フランク ・ディケーター著

毛沢東の大飢饉  史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

本書では、毛沢東大躍進政策のために、餓死・殺戮された中国人民の数は、なんと5000万人だという。5000万人とは、何ともすごい数である。以下の良く知られている大虐殺の犠牲者数と比較しても、桁が違うから驚きだ。例えば、ホロコーストの犠牲者としアウシュヴィッツで400万が死亡したと言われていたが、これは誇張されたもので、現在では死亡者総数は100万から150万とされている。そして、スターリンの大粛清による死亡者の総数が50万人説から700万人説に至るまで諸説様々である。これら過去の混乱期の真実を確定するのは困難であるが、中国の大飢饉が如何に凄まじかったかは理解できる。

1957年にソ連フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。これに対抗して毛沢東も当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に繰り上げた)という、壮大な法螺をふいたのだ。スターリン亡き後、共産主義の盟主は毛沢東であると自負していたから、フルシチョフに負けては面子にかかわる。そこで、市場原理を無視し、激烈なノルマを人民に果たして英米を追い越すほどの増産を指示したのが大躍進政策だ。

毛沢東は、農村から都市まで国中に原始的な溶鉱炉(土法炉)を乱立させて、人海戦術で鉄鋼の大増産を命じたのだ。専門知識もない人民が総がかりで鍋やヤカンまで、鉄が含まれていると思われる物を徴収して、土法炉に放り込んで溶かしたのだ。土法炉を燃やし続ける燃料は、周りの山が禿山になるほど切り出し、それでも足りなければ、家の屋根まではぎとって燃料にした。作業に駆り出された人民は、その間農作業は出来ないから、畑は荒れ放題で食料は無くなるし、重労働と栄養失調でバタバタ倒れたわけだ。そうやって、懸命に土法炉を燃やし続けて出来たのは、クズ鉄だったというオチまでついてくる。

更に、農業生産性を上げるには、畑をなるべく深く耕せと数mも掘り下げさせて、肥料を山ほど与え、単位面積あたりの収穫量を増やすのに農作物を密集させて植えたのだ。農民は意味もなく、一日中畑を掘り返す重労働をさせられ、土法炉の燃料となった家の残りを打ち壊して飼料にしたり、畑一面に砂糖をまいたり、死んだ人間を飼料がわりに畑に投げ込んだりもした。もちろん、密集して植えた作物は十分に日も当たらず、圧迫されて枯れてしまうことも珍しくなかった。農業を業として暮らしてきた農民たちは、そんなことをしても、農業生産性など上がるはずはないことは承知していたが、毛沢東の言葉は絶対だ。

共産党の地方幹部は、大躍進のノルマを果たせなければ責任を問われる立場だったから、なんの役にも立たないクズ鉄を作り続け、水増しして目標達成と中央に報告したのだ。また、現地視察団が巡回してきたときは、視察団の通り道に、たわわに実った稲穂を集め、大豊作を演出したのだ。毛沢東は、これらの報告を聞いていたから、国外から中国の飢饉に対し援助の申出があっても、中国は大豊作で必要なしと断っていた。逆に、中国の影響化にある周辺諸国に食料を援助し続けていたのだ。この大飢饉は自然災害ではなく、毛沢東を頂点とした共産党の人災だったのだ。中国は古代から、人民を食べさせることができる者が皇帝になった。人民は、こちらの王が食べさせてくれると思えば、集団で移動し、あちらの王の方がもっとたらふく食べさせてくれると思えば、そちらに大挙して味方したという歴史がある。であるのに、共産党の皇帝である毛沢東は、人民を飢えさせ5000万人も餓死させたのに、共産党体制は崩壊しなかったのはなぜか。本書は、共産党に取って代わる力のある集団が存在しなかったためだと、分析している。さすがの毛沢東も、大躍進の失敗で失脚するのだが、後に文化大革命復権するのだ。