「科挙」 宮崎市定著

科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)

科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)

中国の官僚登用制度にある「科挙」は、1400年前から始まり、清朝末期であるほんの100年ほど前まで行われていたのだ。6世紀頃のヨーロッパは、ゲルマン民族の大移動が終わり、封建諸侯の群雄割拠が始まろうとしていた。一方の中国では、特権貴族階級の黄金期が既に終わり、新しい社会体制として中央政府から地方政府へ高級官吏を派遣して統治する中央集権体制へと移ってきていた。隋の文帝は、地方政府に対抗する世襲的な貴族の権力を排除するべく、中央政府から高級官吏を送るため、大量の官吏有資格を必要としたところから、科挙の制度が生まれたのだ。支配者側からの科挙は以上のような事情があったのだが、人民側からそれをみれば、官吏ほど得な職業はなく、名誉と実益を得る最も有効な手段として魅力的だったのだ。

さて、その試験内容であるが、地方で行う「郷試」→中央政府で行う「会試」→皇帝みずから行う「殿試」と三段階の選抜方式を取っていた。ただし、正確には、この三段階をベースとしながらも、様々な追加の予備試験もあったので、実際にはもっと複雑な状況であったようだ。郷試の倍率だけでも100倍程度になったそうで、最終的な科挙の合格者である進士になれる者は3000人に1人だとか。そして、進士合格の中でも、そのトップ3である「状元」「榜眼」「探花」の称号を得た者への厚遇は格別であったという。成績トップの状元には、総理大臣や国務大臣クラスの権力者の娘婿としての誘いなどがひっきりなしに舞い込んだようだし、故郷の自宅に状元合格の記念碑として石門が建てられた。この石門は、今でも中国の地方に行くと「状元坊」として見ることが出来るそうだ。

この出世街道まっしぐらの科挙試験であるから、受験者も数万人規模であった。この数万人を公正かつ厳密に審査する仕組みが大掛かりで、さすが中国と思わせる。試験会場は、貢院と呼ばれちょうど一人だけがはいれる独房が蜂の巣のように数千、数万集まったもので、この独房が無限に連なり迷宮のようであった。また、この独房を監視するため、ところどころに高層建築が配され兵士がこれを見はっていたのだ。受験者はこの独房に2晩3日監禁状態となるので、布団や鍋釜の生活用具も持ち込んでキャンプ状態で、試験問題に取り組むのだ。数年に1回の科挙試験だけに使用される貢院は、カビ臭く一部建物が崩れるなど陰惨とした状態であり、このような雰囲気と試験のストレスで追い込まれた受験者が独房で過ごす夜、妖怪に呪い殺されたり、発狂する話しも多く伝わる。金持ちの息子が下女の貞操を犯したため、自殺した下女の亡霊に取りつかれのも貢院ではよくある話とされている。まったく命がけの試験なのだ。もちろん、裏口・わいろ・カンニングも頻繁に行われ、これを防ぐためにも貢院は試験期間になると門を閉ざし、受験者もその採点者もまとめて、世間から隔離される。受験者が試験中に死亡しても、門を開けられないから、死体を菰でくるんで、塀の外へ投げ捨てたというから、すごい。

建前としては広く門戸を開いた実力主義科挙制度だが、実際には試験があまりに難しく進士になるには、幼少時から勉強につぐ勉強の生活を強いられる。だから、農民階級の子供が家庭教師をつけてもらい勉強ばかりしているということは経済的に無理だった。進士合格を目指すが、なかなか合格せず、やっと合格したら白髪の老人で「50年前は23歳の美青年」と揶揄され、笑えない状況になるケースも多かったらしい。なのに、進士合格者のうち宰相となった者は、宰相31人中わずか11人と3分の1に満たない。ただし、この科挙制度、文官が政府の要職を占有し、武官が国務大臣クラスになれないという習慣が軍部独裁の害を防いだという利点もあったのだ。