「戦後日本経済史」 野口 悠紀雄著

戦後日本経済史 (新潮選書)

戦後日本経済史 (新潮選書)

歴史好きでも昭和史はあまり詳しくないのではないか。学校で日本史を古代から順番にやっていくと昭和に多くを割くことなく時間切れ気味となる。また、近代の歴史のポイントは、法制史や経済史で、偉人が歴史を変えるようなドラマチックな展開に乏しいという点に興味が湧かない人も多いだろう。ボクもどちらかと言えば、昭和史の知識が薄いから、そこのところを補いたいという意味で手に取った一冊。著者は、日比谷高校(一高)始まって以来の国語の天才と言われる谷崎潤一郎に次ぐ「文系の雄」と言われながらも、「優秀な人間は理系に行け」という時代の雰囲気に従って理系の学部へ進み、更に経済学へ転向。冷やかしで受けた公務員試験にもトップレベルで合格して大蔵官僚となる。そんな多才な著者が、大蔵官僚時代の経験をもとに戦後日本の経済史を書いたのだから単なる歴史教科書よりはるかに面白いはずだ。

戦後の復興計画は、工業復興のための基幹産業である石炭と鉄鋼の増産に向かって、全ての経済政策を集中的に「傾斜」するという意味で「傾斜生産方式」を取った。政府は、地主層から土地を強制的に安値で買い上げ小作人に売り渡すことで自作農を増やし農政を安定化した。その際の土地買上げの地主層への支払いは国債で行った。また、財閥が保有数する株式や財産も15年間譲渡禁止の国債に転換されたのだ。更に、政府は紙幣を増刷して意図的なインフレを起こすことで家計経済を圧迫し、消費を抑制、強制貯蓄させることで、この貯蓄資金を基幹産業に注ぎ込んだのだ。このインフレによる国債の実質的な価値下落が農地解放により勢力を失った大地主や財閥に追い打ちをかけ、これらの資産保有層を没落させることなる。

戦前の農村が極貧に喘いでいたのは、広大な土地を支配していた大地主の存在のためだった。山形県酒田市を中心に日本最大の地主だった本間家が有名だ。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇っており、その所有地は3000ヘクタール(渋谷区の2倍の面積)に及び、小作農2700人を抱えるほどだったのだ。文豪太宰治の生家である津島家も津軽に250ヘクタールの土地を有し、小作人300人がいた。太宰は小説「斜陽」で、この大地主の没落を描いている。

学校で教える昭和史では、GHQ主導による戦後改革として農地解放・財閥解体あたりまでは教えている。しかし、戦後改革といいながらも実質的には戦時体制の仕組みを踏襲しながら日本は高度成長を果たしてきたのだという部分には踏み込むことはない。現在の日銀は、日銀法で「政府から独立した機関として金融政策、健全な金融システムの維持という役割を担う」としているのが、本来の日銀の位置付けはこれではない。旧日銀法の総則で「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ製作ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス」と定めていたのだ。つまり、日銀は国家の総力戦を想定して金融政策の統制を行う機関なのだ。GHQの戦後改革を経ても、この戦時経済体制的な国家総力戦の統制機関として機能し、日本の金融行政において典型的にみられる行政官庁の強力な行政指導としての「護送船団方式」を生み出したのだ。欧米が株式による直接金融が盛んになる一方、日本は大蔵省主導で日銀を頂点とした銀行業界が融資というかたちでの間接金融を主に経済成長してきた背景はここにあるのだ。そして、著者は、高度成長とともにバブルも、この実質的な戦時経済体制が生み出したと喝破しているのだ。