「子どもより古書が大事と思いたい」 鹿島茂著

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本書を読んで、蔵書家と古書収集家とは異なるものであることがわかった。著者は19世紀パリの風俗を伝える古書を集めることをライフワークとしている。もちろんフランス文学者であり、大学教授であるから収集のみならず研究所として相当の読書量をこなしていることも想像し難くない。

古書購入に使った代金はマンション一戸を買えるほどで、その名前から鹿島建設の御曹司なのだとの噂もあるようだ。著者は本書で、その噂を明確に否定している。それでは、どうすればこれほどの金額を古書につぎ込めるものなのだろうか。資金源は借金であると著者は言う。欲しい古書があれば、銀行に行きローンを組んで資金を用意するのだ。もちろん、毎月このローンを返済するために大学で教鞭を取り、本を執筆して印税を稼がねばならない。そして、本を執筆するためには、資料としての古書を取り寄せなければならず、大抵は印税による収入より資料のための古書代のほうが高くつという悪循環になる。こうなると、古書のローンを返済するために、本を書くほど更なる借金が増えてしまうことになる。むしろ本を書かない方が良いぐらいであると著者は言う。借金はある程度の額を超えると返済しても返済しても決して減らないそうだ。ここまで読んでいて、古書借金事地獄を語るのは著者の一流のユーモアなのではないか、実はやはり鹿島の御曹司なのではないかとも思えてくる。資産であろうと借金であろうと、そこまで古書に入れ込むというか、中毒患者となった著者は大変立派であるとボクは思ってしまう。なかなか真似のできないことである。

話が著者の古書収集資金の方へ、はずれてしまった。古書収集と蔵書の違いであるが、本好きが面白い本を手元に数多く置いておきたい、蔵書したいというのはあくまでその本の内容に左右される。古書の場合は、本の内容には大きな意味がないようだ。古書の価値は、その本の装丁、挿絵、紙質、誰の蔵書だったか、発行数量などである。特に装丁の材質が重要である。19世紀頃の本は、仮綴状態で販売され、購入者が自ら好みの装丁を業者に依頼していた。著者が収集する古書は革装本である。動物の皮革で装丁された革装本にも材質によりレベルがある。一番安価な「バザーヌ」は羊のなめし皮、次はヤギやロバの皮をなめし粒起状にした「シャグラン」、そして高級なのは子牛のなめし皮の「ヴォー」で、最上級は雌ヤギのなめし皮の「マロカン」だ。ヴォーは手袋やカバンに使われるなめらかなあの皮である。マロカンは独特の皺がより手でなでると快いザラツキとした反発がある。これらに箔押しやモザイクが成され、その巧拙により値段も異なるのだ。

著者は時々、パリへ古書買い付けの旅に出かける。ある時、妻と子供二人を連れてパリからフランスの地方をクルマで巡ることにする。著者としては、パリより地方都市の古本屋に掘り出し物があるはずという思惑があるのだが、家族にはフランスの地方の名所を旅しようと持ちかける。家族は旅の途中で著者の行動に不審を抱き始めるのだ。著者は名所での観光時間を次の町でホテルをさがさなきゃならんと言い、やたらと早く切り上げるが当の町に到着しても直ぐにホテルに向かわず古書店を巡り始めるのだ。著者はとうとうある古書店で、素晴らしい掘り出し物を発見し購入。しかし、問題があった。その掘り出し物は、図鑑大の17冊セットで、レンタカーのシビックのトランクは既に旅行カバンでいっぱい。著者の脳裏に一瞬、妻と子供を電車でパリへ帰し、空いた座席に古書を積もうという算段が思い浮かぶ。しかし、異国の地で妻子供をクルマから放り出すのはまずい、まして観光旅行に連れてきている建前になっている。そこで、後部座席に古書積み、小さい子は助手席の妻の膝の上で、もう一人の子供は古書の上に座らせるというアクロバティックな方法を取るのだ。これが、本書のタイトルである「子供より古書が大事と思いたい」である。おまけに、著者は次の町で、更に掘り出し物を発見、さすがにこれ以上の買い物はまずいとあきらめるが、この状態で古書店巡りをあきらめていなかったのだから筋金入りである。

著者は、古書のために莫大な借金を背負い、そのローン返済に追われて自転車操業的に原稿を書かねばならない。著者は、古書収集は狂気の沙汰だと自覚しているが、著者の書く本はそんな狂気を反映してかすこぶる面白い。著者の本を購入することで、著者のライフワークの古書集めが続くよう心から応援したい、と思えた一冊である。